筆者 ヤロスラフ・クラースニーさん
プロフィール:
長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)教授。専門は国際人道法、大量破壊兵器に関する諸問題。立命館アジア太平洋大学卒業後、広島大学国際協力研究科で2014年に修士、2022年に博士の学位を取得。2022年にはジュネープ国際人道法と人権アカデミーでも修士を取得。チェコ共和国内務省安全保障部大量破壊兵器不拡散課・上級執行官、広島大学国際協力研究科のリサーチアソシエイトなどを経て、2023年から国連軍縮研究所の研究員(大量破壊兵器プログラム)を務めた。2025年4月から現職。

1 条約が真に変革的な効果をもたらすために
核兵器禁止条約(TPNW)は、被爆者の体験および核惨禍の再発防止という人道的要請に根差した高邁な理念を体現し、核廃絶に向けて画期的な一歩を示した条約である。核兵器は、人類が発明・使用した兵器の中で最も非人道的かつ壊滅的なものであり、その破壊力と放射線の長期的影響は、被災者に深甚な苦痛をもたらす。ゆえに、TPNWを成功裡に機能させ、核廃絶という究極的目標の実現への不断の努力を継続することが不可欠である。
2025年3月3日から7日にかけて、TPNW第3回締約国会議がニューヨークの国際連合本部にて開催された[1]。会議場および関連サイドイベントでは、核兵器のない世界を志向する強固な意志が示された。しかしながら、依然として顕著な課題が存在する。それは、理想と近年の地政学的現実との間に横たわる深い溝をいかにして埋めるか、という問題である。
今の国際安全保障環境では、核軍縮の道のりは困難にみちており、数々の障壁に正面から向き合う姿勢が求められる。条約が真に変革的な効果をもたらすためには、今日の国際安全保障を取り巻く複雑な現実に、より直接的に関与する必要がある。もとより本稿は、締約国やTPNWを支持する市民社会の誠意や熱意に疑義を呈するものではない。むしろその思いに共感しながら、その思いを実現していくために必要と考えられることを指摘しておきたい。
2 地政学的現実への認識と関与
核廃絶の実現には現在の核保有国が核兵器を廃棄するする必要がある。しかし現実には、少なくとも現段階ではどの核保有国もTPNWに加入しておらず、近い将来にその意向を示すとは考えにくい。むしろ、大半の核保有国、または「核の傘」の下にある国が本条約に対して明確に反対の立場を表明している[2]。
このような状況下においても、TPNWが有する法的および規範的意義を過小評価すべきではない。たとえ締約国外の国家に法的拘束力を持たないとしても、TPNWは国際法の中で期待される行動規範の形成に寄与しており、多くの国際社会が核兵器を非人道的な兵器として捉えている現状を象徴する存在でもある[3]。
他方で、核抑止力が核保有国の安全保障政策の根幹を成しているという現実も直視しなければならない。TPNW締約国は核抑止政策の破棄を促しており、核保有国との間に深い溝が存在している。この状況をどのように打破していくのか。核抑止のリスクおよびその限界について、TPNW締約国が核保有国との実質的な対話を構築することが、最も困難であると同時に、最も重要な課題である。
近年の国際紛争、例えばウクライナにおけるクラスター弾や焼夷弾の使用事例は、関係国が該当条約の枠外にある場合に条約の実効性が制限される現実を示している[4]。同様に核兵器に関しても、TPNWの外にいる国家に対しては限定的な影響しか持ち得ない。したがって、核兵器を巡る議論においては、核有国の安全保障上の懸念を踏まえたうえでの、包括的な対話の場を構築することが不可欠である。これは、核兵器の非道性という道徳的主張を否定するものではなく、その点を強く意識しながら現実的な外交努力の基盤を築くのが目的である。
3 分断の回避と多元的対話の必要性
道徳的訴えは核軍縮において重要な役割を果たしており、特に日本においては、広島・長崎の歴史的経験がそれを裏付けている。私見では、核兵器国の軍事・政治指導者は、長崎および広島を訪れ、被爆による長期的影響を自らの眼で確認すべきである。これらの影響は、時を経ても消えることはないからである。
とは言え、問題の根は深い。現代社会において核兵器の存在が視覚的・日常的に可視化されにくく、我々の意識から希薄化しがちである。核兵器は沈黙の中で存在し続け、決して使われないことを祈りながらも、現実には配備され続けている。私たちが身を置く現在の核世界は、そうした世界である。
この逆境の中にあって、TPNWの意義をより広範な文脈で深化させていくには、何をどのようにすればいいのか。何より大切なのは、自らの立場だけでなく、異なる立場にある主体の見解にも耳を傾ける、多元的な対話の姿勢を持ち続けることである。非難や排除ではなく、相互理解にもとづく説得力と影響力を発揮することこそ、本来の外交の姿だろう。核軍縮の進展には、強い信念に加えて、核保有国を含む多様なアクター間の包摂的な対話が不可欠である。
4 壁ではなく橋を築くために
TPNWの議論には、同質的な価値観を共有する国家や団体の間での自己確認の場にとどまるリスクが潜む。もちろん、連帯は不可欠であるが、実効性ある軍縮は、それを実現しうる能力と意思を持つ主体の参加によって初めて可能となる。化学兵器禁止条約[5]や生物兵器禁止条約[6]など、過去の成功例はすべて、主要ステークホルダーの積極的な関与を通じて実現されたものである。
市民社会による啓発活動は社会意識の醸成に貢献するが、外交交渉の場においては、精緻な論理展開、相互の尊重、そして妥協を要する。これらは相反するものではなく、相互に補完しあうものである。重要なのは、TPNWを取り巻くコミュニティが内向きにならず、外部の意見、特に反対意見を持つ人々と建設的に関わり続けることである。
最終的に、TPNWに関する国際会議やアドボカシー活動は、「橋」としての役割を果たすべきである。もしこの条約が世界的影響力を持つ法的枠組みへと成熟することを望むのであれば、それは多様な主体を包摂し、忍耐強く外交努力を継続するための場でなければならない。
前途は多難であり、一朝一夕に道が開けるものではない。しかし、意見が異なる相手との対話を積み重ねることで、一歩一歩、より平和で安全な世界に近づくための道を進んでいける。原爆の記憶が深く刻まれた長崎という地にあって、私たちは特別な責務を共有している。その責務とは、これまで被爆者の皆様が示してこられた知恵、謙虚さ、そして揺るぎない決意を受け継ぎつつ、私たちも自ら考え、行動に移していくことである。TPNWが、こうした価値観を体現し続ける条約として、今後も国際社会において重要な役割を果たすことを心より願っている。
[1] 国際連合軍縮局「核兵器禁止条約第3回締約国会議(2025年)」https://meetings.unoda.org/-msp/treaty-on-the-prohibition-of-nuclear-weapons-third-meeting-of-states-parties-2025。
[2] CBSニュース「米国、国連の核兵器禁止条約への支持撤回を各国に要請」2020年10月22日、https://www.cbsnews.com/news/us-urges-nations-to-withdraw-support-for-un-nuclear-weapons-prohibition-treaty-ap/。
[3] 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)「核兵器は違法である」ICANオーストラリア、2021年2月2日、https://icanw.org.au/nuclear-weapons-are-illegal/。
[4] デジタル・フォレンジック・リサーチ・ラボ「ロシア戦争報告:マリウポリで焼夷兵器を使用」アトランティック・カウンシル、2022年5月20日、https://www.atlanticcouncil.org/blogs/new-atlanticist/russian-war-report-incendiary-munitions-in-mariupol/。
[5] 国際連合軍縮局「化学兵器禁止条約」https://treaties.unoda.org/t/cwc。
[6] 国際連合軍縮局「生物兵器禁止条約」https://treaties.unoda.org/t/bwc。