インタビュー 被爆者の竹下芙美さんに聞く 1

「防空壕ではろうそくとかランタンとかで照らして、薄暗い中でおままごと遊びをする楽しい基地だった」

《被爆前の幼い頃の日常生活

話し手 竹下芙美さん

プロフィール:
1941年生まれ。3歳の時に入市被爆。1987年の沖縄への旅をきっかけに、核実験に抗議する座り込みなど反核・平和運動に関わるようになる。若いころから病に苦しみ、甲状腺がん、皮膚がん、肺がんが見つかる。1992年に「長崎の被爆遺構を保存する会」を発足させ、共同代表として活動に取り組む。

聞き手 平林千奈満さん

プロフィール:
長崎市内の小学校教諭。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)客員研究員。2000年長崎市生まれ。長崎大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科修了。ナガサキ・ユース代表団第11期生・第12期生。現在、ナガサキ・ユース代表団OGとして、また被爆3世として平和研究と活動に取り組んでいる。

竹下さん(中央)とナガサキ・ユース代表団12期生。前列左端が平林さん(核兵器廃絶長崎連絡協議会提供)

平林 本日はお忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます。被爆者であり、平和活動家でいらっしゃる竹下さんにぜひお話をお伺いしたいと思い、ご自宅までお邪魔させていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。

被爆前のことで、印象に残っていること。被爆前の生活について。

平林 竹下さんは1941年(昭和16年)のお生まれですね。幼少期の記憶は曖昧な部分もあるかもしれませんが、被爆前のことで印象に残っていることや、被爆前にどのような生活をされていたかについて、伝え聞いたことも含めて教えてください。

竹下(敬称略) 被爆前のことというのは、そんなに覚えていないんですね。ただ、小さい頃は、近所では有名なガキ大将だった。どのようにガキ大将を決めるかというと、2つ条件があって。(当時住んでいた)うちのすぐ横はNHK長崎放送局。そこが坂道になっていて、その崖の一番高いところから飛び降りられる。これがガキ大将になる条件の1つ。そして、NHKのアンテナがあって。アンテナをどこまで高く登れるか、これが2つ目の大将の条件。私はまだ小学校に行く前なのに、おてんばだったから、私が結局どっちもクリアして、ガキ大将になったんです。

私は近所にいじめっ子がいたら、「いじめるなって言ってこい!」とか言っててね。小学校5、6年生の男の子を相手に対してもね。それで、(近所の子が)「いじめんごと言ってきた(いじめないように言ってきた)」と言うと、私は「よしよし」って言ってご褒美をあげてね。今みたいになんでも物がある時代じゃないから、私の母の着物や帯をご褒美であげていたので、もらった子の親が「芙美ちゃんからもらったって言っていて。とんでもないです。」と言って返しに来てくれて。それで母が、びっくりして、「芙美、またいらんことして(余計なことして)」ってね。私の小さい頃は、うんとおっちょこちょいで、おてんばでしたね。

平林 当時は、戦時中だったと思いますが、戦時下でありながらも子供としての楽しみな日々があったということでしょうか。

竹下 最初の頃は戦時中というイメージは、あまり持っていなかったです。戦争を意識したのは、防空壕でした。当時は、家庭の床下に小さい防空壕を作って、避難するという形でした。空襲警報が鳴ると、防空壕に子供たちは入れられるんですよ。当時、(私の兄弟姉妹は)弟は赤ちゃんだったから、姉と私とまず入るわけです。防空壕では、ろうそくとかランタンとかで照らして、薄暗い中でおままごと遊びをするから楽しい。もう楽しい基地だったから、空襲警報が早くならないかなっていうぐらいの。戦争の怖さをまだ実感してないから、警報が鳴ると秘密基地で遊べるみたいなイメージ。今思うと、とんでもないことだけど、防空壕のイメージはこうだったんです。

戦争がだんだん激しくなってくると、当時、野菜とかを売りに来てた農家の方が、「この(西坂町)辺り危なくなるから、自分のところ、時津村っていうんだけど、そこの納屋に疎開せん(疎開しない)ですか?」って言ってくださって。祖母と体の不自由だった叔父、姉、私とで疎開させてもらってたんです。疎開先でも、田舎の子供たちと一緒に遊び回ってて、戦争の怖さとかは全然感じなかったですね。

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