「17歳ぐらいの頃に、洗面器で受けるぐらいの鼻血。病気はたくさんしました」
《被爆体験の話》
話し手 竹下芙美さん
プロフィール:
1941年生まれ。3歳の時に入市被爆。1987年の沖縄への旅をきっかけに、核実験に抗議する座り込みなど反核・平和運動に関わるようになる。若いころから病に苦しみ、甲状腺がん、皮膚がん、肺がんが見つかる。1992年に「長崎の被爆遺構を保存する会」を発足させ、共同代表として活動に取り組む。
聞き手 平林千奈満さん
プロフィール:
長崎市内の小学校教諭。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)客員研究員。2000年長崎市生まれ。長崎大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科修了。ナガサキ・ユース代表団第11期生・第12期生。現在、ナガサキ・ユース代表団OGとして、また被爆3世として平和研究と活動に取り組んでいる。
竹下 8月9日。おばあちゃんは、貸してもらっていた農家の畑の草取りをしてて。(11時2分)おばあちゃんは、背中になんか熱いものを感じたそうです。時津でも、熱いものを感じて、ドーンって大きな音も聞こえたって。それで、近くに大きな爆弾が落ちたって言うんで、慌てて納屋に帰ってきたんです。
私も納屋から窓の外を見てみたら、もう黄色いっていうか、白いっていうか、もう太陽いっぱいの、ものすごいでっかい光が目に入ってきて。目に入った瞬間に、母が姉と私に布団を被せてくれて。
母は、西坂町と時津村を行ったり来たりしていた。というのは、父が仕事を持ってるから、西坂町で父の世話をしないといけないし、弁当を作ったりしないといけない。だけど、時津の私たちも気になるからということで、2、3日ごとに行ったり来たりしてて、8月9日はちょうど母が時津村に来てた時だったんです。それで慌てて私たちに布団を被せてくれたんです。被せてくれたというところまでは覚えてるんだけど、なんで被せられたのかなどは全く覚えてなくて。これが9日です。
父は、香焼にあった川南(かわなみ)造船所に勤めてて。今は陸続きですけど、当時は船で渡らないと行けなくて。原爆投下から何時間かして、その日の夕方頃に船が動くようになって、父は西坂町の自宅に帰りました。うちは大きな2階建てだったけど、全部燃えてしまって。大きな柱とかが、まだぶつぶつ燃えていたらしいです。家はどうしようもないということで、その夜は近くで野宿をして、父は翌朝早く私たちがいる時津村に来たんです。障害物がいっぱいあるから、なかなかたどり着かなかったそうです。当時の私は、直接は聞いていないけれど、浦上一帯を通って西坂町から時津に来るまでの惨状を、父が祖母に話したそうです。浦上一帯は何もなかった。「苦しか」「助けて」という人がいっぱいいて。父も足を握られて「水をくれ」と言われたけど、自分も小さな水筒一つしか持ってないし、申し訳ないけどやることができなくて、「すまんすまん、すまんすまん」って言いながら時津に来たということを、後から祖母に聞きました。
平林 竹下さんご自身を含め、ご家族は疎開やお仕事で別の場所にいたから、助かったということなんですね。
竹下 そうですね。翌日(8月10日)から、近くの時津小学校にけが人がどんどん運ばれてきて。夏の暑い時だから、傷からウジ虫がわいて。しかし、薬がない時だから、けが人を集めても治療らしい治療ができなくて。ウジ虫を箸で取り除くぐらいしかできなかったと手当を手伝った母は言っていました。
5日目(8月14日)に、父が西坂町にバラックで簡単な家を作ったから帰ってこいということで、朝早くに時津を出て、子供の足だからあっちよりこっちよりして、夕方の薄暗くなる頃にやっと西坂町に着きました。通りがかりの人が我が家を見て、父のことを大工さんと思ったらしくって。「大工さん、うちにも来て!」とだいぶ言われたとか言ってましたけどね。とりあえず、西坂町で暮らしたんです。
家の土地は割と広かったので、家で食べるぐらいの野菜を小さな畑に植えて、おかずにしました。水道はしばらくしたら来てたみたいだけど、井戸が近くにあったから井戸の水を飲んで。当時は、大人も子供も放射能について全く頭になかったから。今だったら、井戸水を飲んだらだめ、野菜は全部捨てないととか言うんでしょうが、当時は野菜を食べたり水を飲んだりしたんですよね。ひと月もしないうちに、私は下痢が4、5日続いたって母が言っていました。今だと、ちょっと下痢したり、熱が出たりしたら「病院に行かないと」って言うけど、当時はそんなこと全然なかった。下痢したのも、食糧事情がよくないせいだということで、心配しない。そんな状況だったんです。大きな爆弾(原爆)のせいだという認識は全くなかった。
小学校1年生まで西坂小学校に通うんです。二十六聖人の駐車場があるでしょう?我が家はその近くだったのですが、道路を広げるということで、目覚町に引っ越したんです。それで、2年生から銭座小学校に転校したんです。
銭座小学校は、北側にある階段のところにお化けが出るってみんなが言ってて。それで、その辺りは通らずに遠回りして行ってたんですけど。後で何年もして気がついたのは、銭座小学校は被爆校舎で、階段の踏み台のところが木でできているんです。原爆資料館に被爆当時の階段が展示してあるんですけど、ガラスがたくさん突き刺さってて。そういうことで、被爆をした場所で、お化けが出るという噂がいつの間にか出たんじゃないかなと思っています。

竹下 中学校は淵中学校に行きました。私、勉強が大嫌いだったんです。当時、うちも含めて、みんな貧乏で。中学を卒業すると半分ぐらいは高校に行って、半分ぐらいが就職っていう時代だったんです。父は、なんとか頑張るから高校に行けと言ったんだけど、やっと中学校を出たから行きたくないと。もし、お金があるんだったら、私は縫物とか編み物とかが大好きだから和洋裁の学校に行きたいと言って。その頃、姉は夜間高校に行っていましたが、私は玉英女学校という和洋裁学校に行かせてもらいました。結果、材料費なんかで高校よりお金がかかったかもしれんね。今、ちょっと手が痛くて何もできないんだけど、自分の着るものは何でも縫えたね。本当にありがたかったなと思って、親に感謝するんですけどね。
和洋裁学校に行っていた17歳ぐらいの頃に、鼻血が出たんです。初めは、上を向いていたんだけど、あまりにもたくさん出て息苦しくて、洗面器で受けるぐらいドバドバと鼻血が出たんです。一旦止まったけど、翌日にドバドバ出て、2日間続いたんです。その時、なんでこんなに鼻血が出るかなと思ったけど、さっき言ったように当時のことだから、鼻血なんか誰でも出るというような感じだったんですよ。それがあの原爆とは結びつかないわけですよ。
和洋裁学校を卒業して、20歳の時に盲腸になりました。手術後退院して、その夜、ものすごくお腹が痛くなって。あんまり痛がるもんだから、翌日手術した病院に行ったんですよ。消毒綿花でお腹を拭いてるだけでも、膿がピューって飛び出るぐらいで。消毒したりしてたんだけど、1週間しても治らなかったんですよ。それで大学病院に行くようにって言われて、大学病院に移りました。大学病院の先生が傷を新しくするとくっつきが早いっておしゃって、5回ぐらい切ったんです。私は旧姓井口なんですけど、先生が「井口、ちょっとしか切らないから、麻酔いらんな」と。私は「いや、痛かですよ」と言ったら、先生が「いや、大丈夫。誰も麻酔せんぞ」って言って。私も意地っ張りだから「じゃあしょうがない」と言って、切られたんだけど。切った後に先生が、「本当は誰も麻酔なしでせん(しない)」って。私は「先生、ひどかね。痛かもん」ってね。だけど、傷はくっつかなくて。結局、脇からおへその真下近くまで、大きな傷になってね。半年ぐらいしてやっと治ったんです。先生に、「なんで、(治るまで)こんな長くかかるんですかね?」と聞いたら、「被爆した人に、傷が治りにくいというのは多かもんね。」と先生がおしゃって。その時に、鼻血が出たのも「被爆しているせいかな」と考えました。
それからも、病気はたくさんしました。
20歳の時、その頃、私はものすごく痩せていました。お腹が膨らんできたもんだからおかしいなと思って。先輩に子宮筋腫で手術をしたっていう人がいて、その人に相談をしたら、「芙美さん、おかしか(おかしい)。絶対、病院に行かんね(行きなさい)。明日行かんね(行きなさい)」って言われて、翌日病院に行きました。左側の卵巣が赤ちゃんの頭大に膨れているということで切ったら、反対側も同じように腫れていると。今は(良性)腫瘍だけど、もうちょっと時間が経っとったら、がんに移行してたよって言われました。
私は1957年に被爆者手帳をもらいました。そして、がんは3つしたんです。最初は甲状腺がん(1990年)。次が皮膚がん(2019年)。3回目が今治療中なんですけど、肺がん(2024年)。私は入市被爆なんです。入市被爆でも、こんなに影響があるかどうか分からないんです。甲状腺がんの時に、特別被爆の申請を出したんですけど、そのせいとは考えられないと却下だったんです。2回目(皮膚がん)のときは、手続きが面倒くさいから何もしなかったんです。肺がんの時に頭をよぎったのは、申請した方がいいのかなと。お金が欲しいのではなく、入市被爆でもこんなにがんを発症するんだということを、皆さんに残さないといけないと思って申請しようと思ったんだけど、手続きが面倒で、結局してないんだけどね。
平林 竹下さんは、病歴を丁寧にまとめられていますね。病歴を拝見すると、がんだけではなく、高熱が出るなど色々な病気と闘ってこられていますね。
竹下 病院に行くたびに聞かれるから、まとめています。よく分からない病気は結構あるんです。熱が続くから入院して調べたけど、結局よく分からないとかね。
これ、肺がんの薬なんですけど。肺がんは2024年の6月に見つかって。ラッキーねって言われているんだけど、普段バイクで移動していて。バイクで右折しようとしたら、乗用車が来たもんだから、それを避けるために左のコンクリートの壁にずるずるって当てて止めたんですよ。その時に脚もすりむけて、ものすごく痛くてね。病院に行って、レントゲンを撮ると、肋骨が一本折れてて。その時に先生が、反対側に変な影があるって言われて。原爆病院で精密検査をしたら、肺がんが見つかって。ステージ4と言われました。手術はできないと言われたんだけど、先生が色々と薬を調整してくれて、去年の時点で1年半前にできた薬が私の体に合ったんですよね。去年の12月に撮ったCTでは、影がほとんどないんです。先生も薬がよく合ったんだねとびっくりしてね。肺がんが見つかった時には、来年の桜は見れるかなと言われてたんですけど、CT検査の後には、十分見れますよって言われて。私は先生に、「先生、恥ずかしか。近しい人に、お世話になりました。本当に皆さんに可愛がっていただいて、ありがとうございましたと言ったから、恥ずかしくて、会えん(会えない)」と言ったら、先生は「よかったとよ。逆じゃなくて」って大笑いしたけどね。
平林 被爆後は、色々な病気の時に、もしかしたら被爆の影響かもと思われていたということですね。
竹下 病気の時に思うね。原爆によって直接怪我をした人は、身内にはいません。しかし、祖父、祖母、父、叔父、叔母はがんで亡くなりました。やっぱり、(がんが)原爆のせいだろうかと身内で話したことはよくありました。多くの被爆者の方が多分思っていらっしゃると思うんだけど、自分の体の中にいつ爆発するか分からない時限爆弾を持っているというか。やっぱり、病気のたびに、原爆のせいじゃないかっていつも思うし、その不安がある。私は病気と原爆をつなげて考える自分が嫌でたまらんのやけど、でもやっぱりつい考えてしまいますね。
平林 病気以外で、これまでの人生において、原爆による差別や偏見はありましたか?
竹下 私は幸いないです。でも、知り合いが結婚式の日取りまで決まってたんだけど、奥さんになる人が被爆者と分かって、子どもに何か影響があるのではないかということで、結局破談になったんですよね。身近で聞いて、びっくりしましたね。
これが被爆者手帳なんですけど、この手帳をとる時も、父はいらないと言ってね。被爆者手帳によって、医療費はかからないかもしれないけど、父ちゃんが働くから、いらないと。長崎の人と縁があったら、県外の人と縁があったらなおのこと、被爆者ということで、破談になるから、手帳は取らないと最初は言ってましたね。でも、私が「今は父ちゃんに養ってもらってるけど、そうじゃなくなった時に、やっぱり手帳があったら助かるから、取っててくれんね(取ってください)」と言って。でも、こんなに手帳のお世話になるとは思わなかった。
インタビュー 被爆者の竹下芙美さんに聞く 2