インタビュー 被爆者の竹下芙美さんに聞く 5

「韓国の在外被爆者の皆さんに対して被爆者としての支援がなかった時だから、私たちが訪ねていくことが、唯一救われる時間だったわけですね」

《在外被爆者や中国人強制連行問題との関わり

話し手 竹下芙美さん

プロフィール:
1941年生まれ。3歳の時に入市被爆。1987年の沖縄への旅をきっかけに、核実験に抗議する座り込みなど反核・平和運動に関わるようになる。若いころから病に苦しみ、甲状腺がん、皮膚がん、肺がんが見つかる。1992年に「長崎の被爆遺構を保存する会」を発足させ、共同代表として活動に取り組む。

聞き手 平林千奈満さん

プロフィール:
長崎市内の小学校教諭。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)客員研究員。2000年長崎市生まれ。長崎大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科修了。ナガサキ・ユース代表団第11期生・第12期生。現在、ナガサキ・ユース代表団OGとして、また被爆3世として平和研究と活動に取り組んでいる。

竹下 在外被爆者を探したり、被爆者手帳を取るためのお手伝いもしたりしてましたね。今では、在外被爆者の方も被爆者手帳を自分が住んでいるところで申請できるようになり、医療費も日本国内の被爆者とほぼ一緒ぐらいの負担ですむようになったしね。

韓国の釜山にいらっしゃる在外被爆者の方を訪ねるきっかけとなったのは、被爆二世の会が韓国の在外被爆者の調査および見舞い金をされていて、一緒に行きませんかと誘ってもらったのがきっかけです。最初に釜山に行った時は、すごく怖かったですよ。日本人が韓国でどういう思いをさせてきたか、よく分かっているから。石でも投げられても仕方ないという覚悟で行ったんだけどね。韓国の方は、自分たちを助けてくれる仕事に来てくれたということでしょうね、私たちをすごく大事にして、歓迎してくださったんですよね。私が感動したのは、「(韓国の在外被爆者の方が)自分たちは被害者だけど、日本の皆さんと同等でいいので、支援をしてほしい。日本の皆さんより、支援の額を増やしてほしいと思っていない。」とおっしゃったことです。それはもう、感動しましたね。

そして、韓国の被爆者の方は、当時の日本では考えられないぐらいに貧しい生活をされていたことを思い知らされました。ご自宅に伺ったときに、ざるに入ったおみかんを出してくださったんです。周りを見たら、ドアの隙間から、子供が欲しそうにこちらを見てるんです。私はとても食べられないから、子供に食べてもらおうと思って手を出さなかったんです。すると、平野さんが腕で私をツンツンってして、「このみかんは、私たちが来てくれて嬉しいという思いで、本当にないお金で頑張って買ってくれたものだから、食べないといけない」と言われてね。この時のみかんの味は忘れられないね。涙いっぱいだったけど、涙をこらえて食べたね。家をお訪ねした後、私は平野さんに、「私が韓国に行くよりも、その旅費をカンパに入れた方がいいと思うから、次からは韓国に行けない」と伝えたんです。すると、平野さんは「みんな1回はそう思うけど、芙美さんそれは違う。少しのお見舞い金をもらうのも嬉しいけど、それ以上に在外被爆者の皆さんは、私たちが尋ねることで、自分たちが忘れられていない、来てくれて嬉しい、というのがある。だから、来ないとだめ」と言われてね。「なるほど」と思ってね。

平林 被爆者同士での交流という意味もありますし、私たちは忘れられてないというところが大きいんですね。

竹下 当時は、韓国の在外被爆者の皆さんに対して、被爆者としての支援がなかった時だから、私たちが訪ねていくことが、唯一救われる時間だったんですね。それからは、いつも平野さんとご一緒させていただいて、韓国に伺っていました。

竹下 強制連行で長崎に来た中国人の被爆者の方々の調査にも参加して、何度も中国に行きました。中国でお話を聞くと、畑仕事をしているときに、家に帰る間もなくいきなり連行されて、日本に来たという方もいらっしゃいました。そういう方々の裁判の支援をして、裁判では最終的に負けてしまったんだけども、三菱マテリアルの東京にある本社などにも交渉に行ったりしてね。結局、三菱マテリアル側が和解金を一人当たり10万元支払うことになりました。裁判の原告の人たちに、和解金をまず渡したいんですけど、和解が成立した頃には原告の人は亡くなってもう2、3人しかご存命ではなくて。ご存命だった方には、直接渡せてるんだけど、他の方たちには、遺族のどの方に渡していいかの調査が今大変でした。

平林 「中国人原爆犠牲者追悼碑」の建立には、どんな経緯があったんでしょうか。

竹下 ある時、中国の方から長崎原爆で犠牲になられた方の追悼碑を建ててほしいと希望があったんです。追悼碑の建立のための市民運動に本島等元長崎市長[1]も参加してくださったんです。雨の日も風の日も、人通りの多い鉄橋(鉄橋)でカンパ運動を行いました。2008年7月に、浦上刑務支所で原爆の犠牲になった32人の中国人の名前を刻んだ「中国人原爆犠牲者追悼碑」を建立することができました。

また、長崎での中国人強制連行被害者を追悼する碑も建てなきゃいけないということで、2021年11月に長崎市内某所に「日中友好平和不戦の碑」を建てました。その碑の側には、尽力してくださった本島元長崎市長と高實康先生の碑も設置しました。去年(2024年)、中国の遺族の方が来られて、今年も来られる予定です。遺族の方との交流を続けています。

中国人原爆犠牲者追悼碑(平林撮影)

「やっぱり、「知る」ことは大切です。昔はね、知らないことは知らないと思ってたんです。だけど、知らないことは罪なんだというのを、今はずっと感じてる」

参考文献:

[1] 本島等(1922~2014)新上五島町生まれ。1979~1995年、長崎市長。「旧浦上刑務支所・中国人原爆犠牲者追悼碑」の建立にあたっては中心となって活動するなど、市長退任後も国内外の被爆者の支援に尽力した。

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