インタビュー 被爆者の竹下芙美さんに聞く 4

「(爆心地公園で遺骨を見つけた)子は自分が死んだことすら知らないで、まだ昼寝してるんじゃないかなと思ってね」

《「さくらこちゃん」との出会い

話し手 竹下芙美さん

プロフィール:
1941年生まれ。3歳の時に入市被爆。1987年の沖縄への旅をきっかけに、核実験に抗議する座り込みなど反核・平和運動に関わるようになる。若いころから病に苦しみ、甲状腺がん、皮膚がん、肺がんが見つかる。1992年に「長崎の被爆遺構を保存する会」を発足させ、共同代表として活動に取り組む。

聞き手 平林千奈満さん

プロフィール:
長崎市内の小学校教諭。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)客員研究員。2000年長崎市生まれ。長崎大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科修了。ナガサキ・ユース代表団第11期生・第12期生。現在、ナガサキ・ユース代表団OGとして、また被爆3世として平和研究と活動に取り組んでいる。

竹下 1996年に、爆心地公園の原爆落下中心碑撤去と建て替え計画が明らかになったんです。三角柱の中心碑を取り壊して、母子像を設置すると。最初におかしい、三角柱を大事にしたいと声を上げたのは、長崎の美術関係の皆さんでした。私も三角柱の取り壊しはしないでほしいと思いました。母子像だと、宗教によってはお参りできない人たちがいるからです。無機質な三角柱だったら、色んな宗教の方もお参りできるということで、絶対に取り壊してはいけないと、反対運動が始まるわけです。

当時私は、原爆落下中心から半径500メートルぐらいの距離で古い家を建て替える時には何か(被爆品などが)出てくるかもしれないと思って探していたんです。1回目の反対運動の集会の帰りに、爆心地にはすごいのがあるに違いないと探したんですね。他の場所とは比べ物にならないぐらいの泡立った屋根瓦などがあってね。探しているうちに、桜の木の根っこのところに手のひらにのるお饅頭ぐらいの大きさの灰色というか、黒というか、塊が出てきました。そして、台所用品と一緒に大人のものと思われる背骨が出てきて、知り合いの解剖学の先生に聞いたら、24、25歳ぐらいの女性の骨というのが分かったんですよ。

それから、2メートルぐらい離れたところに、そば殻が炭になった状態で塊になっていて、そのそばに小さい頭蓋骨があって、中には歯が5、6本あったんです。その骨も解剖学の先生に調べてもらったら、4、5歳の子供の骨には間違いないけど、性別が分からないと言われて。私は、近くから赤や黄色の洋服のボタンが出てきたものですから、想像ですけど、女の子だったんじゃないかなと思いました。その近くからは、学生服の中に、小や中と書かれた男の子の学生服のボタンも出てきたものだから、お兄ちゃんがいたんだろうなと思って。

1945年8月9日は、いくら戦争時代といっても、子供たちは遊び回って疲れて早めのお昼寝をしてたんじゃないかなって。台所でお母さんが包丁を使う音を聞きながら、うとうとしてたんじゃないかなと思って。私は、この(骨で見つかった)子はまだ自分が死んだことすら知らないで、まだ昼寝してるんじゃないかなと思ってね。もちろん、当時誰が住んでいたかの再現地図を見たり、マスコミの方にもお願いして探してもらったりしたけど、どこの家かが分からず。だから名前も分からなくて。その時、ちょうど桜が満開で、桜の花吹雪の中で見つけたから、「さくらこちゃん」と名付けて、「さくらこちゃん、辛かったね。長いこと辛かったね」と、掘ったんです。

爆心地公園の発掘調査の様子(竹下さん作)
学生服のボタンの再現(竹下さん作)

工事で約1メートル50センチくらい掘られているところにあったはしごは、パイプでつくられたようなもので、怖かったので掘っているところに下りないで、表面だけ見ていたんです。でも、怖いとか言っている場合ではないと思って、思い切って下に降りたんです。すると、掘っていないのに、小さな骨がそのまま見えたんです。周りを見ると、掘った土が公園の中央のところにうず高く積もっていたので、すでにそこに捨ててるんじゃないかと思いました。そこで、平和公園の時に結成した被爆遺構を保存する会の仲間と一緒に、工事より先に、遺骨収集や発掘調査が先じゃないんですか、と市に言ったんですけど、何回言ってもダメで。工期があるから、そんなことしたら間に合わないって言われたんです。

「何のために綺麗にする公園なんですか?遺骨を踏みつけて、生活用品を踏みつけて、亡くなった方が心安らかに眠れますか」ってだいぶ言ったら、地層が見える窓を作るから勘弁してくださいって言われて、作ってくれたんです。だから、市民の声がなければ地層が見える窓はなかったし、市民の声で作られたんです。こういうことがあって、行政に不信感を抱くとともに、被爆遺構とか原爆落下中心地碑とか大事にしないとと思いましたね。

遺骨は、あちこちから集めて、骨つぼ3つ半ぐらいは集めたんですけど、まだ取り残しもあってね。私がまだ市民運動を始めたばかりで、訴えたいことを強く言えなくて、すごく後悔してるんです。あるとき、地層が見える窓側の地層は触らないでくださいと言われて。でも、そこに人間の体があったんですよ。私は、その骨の半分は堀り出したんですけど、半分を取り残してしまって。当時は、まだ気が弱くて訴えれなくて、ずっと後悔してるんだけどね。だから今でも、あそこに骨が埋まってるんです。

被爆当時の地層が見える窓(平林撮影) 
被爆当時の地層(平林撮影) 

平林 爆心地公園の辺りは、今でも遺骨が埋まっている状況ということなんですね。

竹下 そうなんです。初めは、今は亡き被爆者の内田伯[1]さんと一週間は二人で掘っていたんだけど。内田さんは仕事があるということで、後はずっと私一人で掘ったんです。

平林 それからは、竹下さんお一人でされていたんですね。

竹下 初めは軍手とスコップで掘っていたんですけど。被爆後50年経っているし、地面がにゅるっとしているところもあるしね。黒いと、木材か人間の骨なのか茶碗のかけらなのかあまり分からない。だから手で掘らないといけないと思って、軍手も取って掘ってね。手で掘ると爪の間に土が入るので、家に帰ると痛かったね。でも、掘っている最中は掘るのに夢中で、早く出してあげたいと思って、痛いとかは全然なかったね。今みたいにスマホがある時代じゃないから、写真もほとんど撮れていなくてね。「さくらこちゃん」の骨も撮っておけばよかったのに、撮れていないですね。早く出してあげたいという気持ちの方が強くてね。

平林 「さくらこちゃん」の遺骨は今どちらにあるんですか?

竹下 原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂にあります。最初、人間の骨を見つけたらすぐに届けないといけないと警察から怒られてね。言われてみればそうだんだけど、原爆で苦しかったんだろうなという思いしかなくて、そんなことよぎらなかったね。

長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂(平林撮影)

平林 「さくらこちゃん」を見つけた体験をもとに書かれた「忘れないで長崎原爆とさくらこちゃん」を読ませていただきました。「忘れないでさくらこちゃん」絵本プロジェクトとして、「長崎市平和の新しい伝え方応援事業費補助金」に応募され、完成した絵本は、すべての市内小学校に1冊ずつ提供されたと思います。どのような思いで、このプロジェクトを行おうと考えたのか教えてください。

竹下 「さくらこちゃん」を知らない人は、たくさんいます。戦時下は、貧しく食べ物もないけど、子供たちは兄弟姉妹で遊んでて。そんな中、一発の原子爆弾によって殺されてしまった。戦争、原爆は本当に嫌で怖いものだということを伝えたい。私にできることは、(「さくらこちゃん」を)掘り出した時の様子を伝えることだから、絵本にしようと思いました。でも、なかなか難しくて、完成まで思い立ってから3年ぐらいかかったね。

「忘れないで長崎原爆とさくらこちゃん」の表紙(平林撮影)

平林 竹下さんの思いがとっても詰まった一冊だと思います。色んな方に竹下さんの思いが伝わればいいなと思います。

竹下 やっぱり、たくさんの人に読んでいただきたいね。島原の小学校の児童が、私が書いた絵本を読んで、一人ずつ感想文をはがきに書いてくれたんです。私は今、手が痛くてペンを握るのが難しいんだけど、頑張ってはがきにお返事を一人ずつ書いたんです。すると、児童たちは手紙をもらって嬉しかったと言って、私が出したはがきを持って写真を送ってくれたんです。そして、児童に体調が今あまりよくないと伝えたら、折り鶴でプレゼントを作ってくれてね。絵本を出したことで、このようにつながっていくのが本当に嬉しいね。

他にも、絵本を読んだ京都の小学生が感動してくれて、私が「反核 9の日」の座り込みをしてると言ったら、ぜひ参加したいと言ってくれて、3月9日にお父さんと2人の息子さんで来てくれました。そうして、ずっと広がっていくのがすごく嬉しくてね。私たちはもうあと何年かでいなくなるけど、こうして小学生、中学生、高校生に核兵器が無くなるまで伝えていかないとだなと思ったね。

平林 竹下さんは、掘り出した被爆遺品の一部を銭座小学校に被爆資料として寄贈されたと伺いました。この点に関して教えてください。

竹下 遺品や遺骨はたくさん掘り出されていました。掘り出されたものの中で、倉庫に眠らせるのであればいただけないかお願いし、お譲りしていただきました。家に置いていてももったいないので、大事にしてくれるところを探していました。そのとき、平野伸人さんが銭座小学校に勤務していて、平野さんにお尋ねしたところ、「芙美さんは卒業生だし、銭座小学校は被爆校舎だし、銭座小学校がいいんじゃない」と言ってくださって。銭座小学校では、児童数もだいぶ減ってきて、空いている教室が使えるとのことで、銭座小学校の一部屋を被爆資料の展示室にしてくださったんです。

平林 今でも、銭座小学校に通う児童は被爆資料に触れることができる環境にあるんですね。

竹下 被爆資料を贈呈するときに、大事なものだから触ってはいけないではなく、皆さん触ってくださいとお願いしたんです。すると私が話をしている途中に早速、手のひらに被爆瓦をのせた児童が私を呼ぶので聞くと、「この瓦、あたたかい気がする」て言ってくれて。「ああ。私、ここに持ってきてよかった」と思ってね。イメージを膨らましてくれることが、大事なんです。

長崎市立銭座小学校の被爆資料展示室1(竹下さん提供)
長崎市立銭座小学校の被爆資料展示室2(竹下さん提供)

参考文献:

[1] 内田伯(1929~2020)南島原市出身。旧制瓊浦中学4年生(15歳)のときに、学徒動員先の三菱兵器大橋工場で被爆。「長崎の証言の会」代表委員。生前、語り部活動を行うほか、長崎の爆心地付近の地図を復元する活動に取り組んだ。

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